オペラ・シリーズ短編「その先の物語」
2017.08.01
※こちらは「オペラ・シリーズ」完結後の物語です。本編読了後にお読みください。
その声は男らしくもなく、女っぽくもなく、どちらかといえば名人の作った楽器を子供がでたらめに鳴らしたような、洞窟を抜ける風の音のような、そんなような声だった。
「ごきげんよう、きみ。朝ですよ。気分いかが」
度を超して優しい声が耳を撫で、カナギは瞑目したまま、じんわりと嫌な顔をする。
「……寝てるのに頭がぐらぐらするし、胸はむかむかして腹は痛くて耳の辺りが変にどくどくいってる。これで気分がよかったら正真正銘のド変態だし、俺は生涯を通して変態だったことは一度もない……」
「ふむ。つまりきみは相変わらず、すがすがしいまでの不健康ということですね。まあ心配することはありません、死体としてはかなり元気なほうですから」
「お前なあ……」
「本当ですよ? わたしは嘘を吐けません。元気な死体について知りたいのなら、ひとつ歌ってさしあげましょう。ルースの最北、世の果てという名の城に住んでいた死体の姫君と、彼女を命がけで愛した男と、虹色ぷるぷるダコの物語を」
「今、タコの話必要だったか!? 要らないよな!!」
「まさか。タコがこの話の要です。ちなみに生で食べるととっても美味しい」
「食うな!! そんな顔して虹色ぷるぷるダコなんぞ!!」
カナギは力一杯叫んで目を見開き、目の前を睨みつける。
どうせそこにあるのは、肌も髪も、何もかもが処女雪のように真っ白できらきらしていて、記憶するのも難しいような顔と決まっているのだ。
……と、思ったのだが。
実際カナギの目の前にあったのは、きょとんとした黄昏色の瞳だった。
「……あれ?」
「カナギ、体調、悪いの?」
カナギが横たわった寝椅子の端に膝をつき、ぐい、と前のめりになる女性の名はミリアンという。
若くしてカナギの妻となった彼女は、今が美しさの盛りであった。
痩せすぎのせいでアンバランスだった造作は品良く整い、定住生活で体は全体的に丸みを帯びた。豊かな金髪が波打ちながらカナギの頬に触れ、野の薬草と帝国製の紅香花が入り交じったような香りが漂う。
カナギは夢から覚めたばかりの両目でゆっくりと瞬き、妻の真剣な面持ちを見上げた。
「うん。……あ、いや、全然だ。全然悪くない」
半ば夢心地のまま自分の脈を取り、体温を確かめ、手指の動きを試す。
どれもこれもが正常だ。当然のことだった。
かつて呪いでぼろぼろだった自分の体は、一度死んだ。そして、完全な健康体としてよみがえったのである。
――まさしく、神の御業によって。
「本当?」
「本当だよ。変な夢をみていただけだ。……不安にさせたか?」
カナギが穏やかな声を出すと、ミリアンは小首をかしげた。
「むしろ……安心した」
「なんで……!?」
「これ」
言葉少なに突き出されたのは、羊皮紙を丸めて封蝋をしたものだ。
カナギは眉根を寄せる。
「公文書だな」
「バシュラールから」
「ってことは……勅令……!? おい、これ、いつ来たんだ? 使者は? って、封開いてるぞ!?」
飛び起きて羊皮紙をつかむカナギに、ミリアンはぽつぽつと言う。
「使者は、カナギを起こそうとしたから、帰した。ちょっと脅かしたけど、お土産に芋団子持たせたから大丈夫」
「大丈夫じゃない!! 何言ってきたんだ、あいつは……」
「戦だって」
「は?」
カナギは思わずミリアンの顔を見つめ直した。
ミリアンは瞬きひとつもせずに、カナギを見つめ返してくる。その瞳は不思議なくらい凪いでいた。だが、静謐なのは薄ら氷一枚なのもよくわかった。
カナギは小さく息を吐き、改めて皇帝からの命令書に目を通す。
「ははあ。ついに反乱討伐に本腰入れるってことか。それで? 薬師の部隊を作る……?」
「けが人は、切り捨てていったほうがいいと思うけど」
「うん。普通はそうだ」
カナギは少しばかり考え、少々長すぎる足を組んで頬杖をついた。
狭い書斎の書物だらけの壁をにらみ、彼は言う。
「……まあ、バシュラールのことだからな、考えがあるんだろ。おそらくは、奴お得意の人気取りか。何せ帝国ってのはでかいからな、兵隊もいろんなのがいる。いざ自分たちのついてるほうが負けそうだと見たら、毎夜ぼろぼろ脱走するんだ。だからバシュラールは俺を引っ張り出して大々的に薬師の部隊を作り、自分は自分の兵を見捨てない、自分についてくるのが一番死なない、って宣伝したいんじゃないか」
上手い手ではあるな、と思いを巡らせていると、視界にいきなりミリアンが割りこんできた。
「私も行く」
「いや、俺は行くとは言ってない……」
「私も行く」
ぐいぐい近づいてくる顔に、カナギは覚悟を決めて声を低くする。
「だめだ」
きっぱりとした否定に、ミリアンの眉がわずかに下がった。
「……殺す……?」
「誰をだ!? 俺か!?」
カナギは焦って怒鳴る。
ミリアンは答えず、ただ自分の足下を見つめて沈黙した。
そのさまがしおれた子犬のようで、カナギはすぐにいてもたってもいられなくなった。
手を伸べて細い肩を抱き、自分の身に沿わせる。ぽふりと彼女の頭を顎の下へ納め、カナギは静かに言い聞かせる。
「行かないよ。俺はお前と、あいつらを守れたら、それでいいんだから」
ミリアンはカナギの薬草くさい胸に顔をうずめ、彼の言葉を聞いている。
そして、他の様々な音を。
きゃはははは、と、少し遠くで子供の笑い声がはじけた。あれは診療所の玄関先からだ。診療所で雇っている薬師見習いの夫人と、兄にあやしてもらっている赤ん坊の声だ。
胸を締め付けられるような、日常の音だ。
ミリアンはそっと目を閉じ、もう一度口を開く。
「カナギ。……さっき、夢をみてたの?」
「ああ」
「あのひとの、ゆめ?」
「……ああ」
カナギの返事は少し遅れたが、はっきりとしたものだった。
ミリアンは、頬を彼の胸に擦りつけて言う。
「いま、あのひとがいたら、なんて言うかな」
「……何やっても、あいつはにこにこしてるだけだろ。あいつは……」
自然と言葉が消え入り、ミリアンは顔を上げる。
「カナギ?」
見上げた顔は、きれいだった。
カナギはどこか遠くを、瞳では見通すことが出来ないところを、まっすぐに見ていた。
彼はそんな瞳のまま、言った。
「あいつは、ひとが好きなんだ」
■□■
ふふ、と、宝石じみた笑い声がこぼれた。
「旅の方。どうかなさいましたか?」
ぼろぼろの古風な衣をまとった司書――以前は魔道師だったのだろう――は、角灯片手に穴蔵のような書庫の端を見やった。
自然洞窟を整備して作った書庫の天井は高く、広さは端から端まで、成人男性の足で二十歩ほどはある。その壁面すべてに書棚が張りついているのだ。 『彼』は、長い木製の脚立の上に止まって、膝に大きな本を開いていた。
「ああ、これは失礼。すっかり長居してしまいました」
男らしくはなく、女のようでもない声が囁き、白い髪がさらりと流れる。
角灯の明かりが白に反射し、きら、きらと輝いて、司書は呆然と瞬いた。
「いえ……いえ、それはもう、いくらでも滞在してくださってかまわないのですよ、この書庫は、知を求める旅人には、常に開かれているのですから」
「ありがとう。でも、充分です。見たいものは見られましたから」
『彼』は言い、丁寧に本を閉じる。
司書は夢見心地のまま、何度か目をぱちぱちとやって言葉を探した。
行きずりの詩人などと何か話す必要はなかったのだが、それでも、少しでも、何か話していたかったのだ。
「そうですか。その……失礼ですが、ずいぶん、楽しそうですね」
司書が言うと、本を棚に戻した『彼』は振り返り、そっと目を細めて笑う。
「ええ」
司書は、もはや何も返せない。今、何を見たのか、さっぱりわからない。
あれが、ひとの顔なのだろうか。
あれは、なんだ。
もはや、美しい、というのではない。
輝かしい、ならば少し近いかもしれない。
同族とはとても思えぬ。荘厳な森や、山脈や、そこを駆け下ってくる水や、そんなものに微笑まれてしまったような、そんな気持ちだった。
司書は呆然と口を開いて、立ち尽くすばかり。
その隙に、『彼』はのんびりと書庫を出た。
踊るような足取りで、足音もさせず。ただ、長い杖で地を打つ音だけを緩慢に響かせて、『彼』は、白い詩人は、ひとりごちる。
「ふふ。そうか、あれはもう、子の出来た後の彼だ。声のかけ方を間違ってしまったな。厚い本だからね、そういうこともある。さて……次は、どこへ行こうか」